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執筆者の写真Saori Ushijima

「家庭環境が悪い子に対して綺麗事を語るのは無駄でしょうか?」


雪が降って、積り、また解けて気が付けばもう2月が目前!

一月は行く、とはよく言ったものですなぁ。


さて、今日は久しぶりにQuoraの回答より。

というご質問に回答したいと思います。



【回答】

無駄ですが、綺麗事はとても大切です。


家庭環境が悪い、すなわち虐待や緊張や不安定さを常に抱えている家族に生まれた子どもは、まず「世界の危うさ」に、そして「世界の理不尽さ」と相対しながら生きています。


言葉がわかる年齢になってから、学校や親から常に綺麗事を教えられますが、しかし世界はそうはなっていないようだ、という混乱のさ中にいながら、必死に今日を生きているのが、目の前にいて綺麗事を言ってやりたくなるような「問題のあるとされる」子どもたちなんだと思います。


そうした子どもたちは、自然と同じ「理不尽な世界に生きる」子どもたちと惹かれあい、助け合い、時に傷つけ合いながらなんとか日々を過ごしています。そうした子どもが生きていけるのは、同じ世界観を共有してくれる仲間がリアルでもネットでもいいから存在しているからです。


親ガチャ、陰キャ、ブラック企業、メンヘラ、などは、そうした世界の理不尽さを共有する言語としてとてもよく表されていると思います。同世代で綺麗事じゃない世界の苦労を分かち合うことは、それはそれでとても意味のあることです。


さて、「問題のあるとされる子」がなぜ問題を抱えているかというと、綺麗事を押し付けられてきたのにも関わらず世界は綺麗事のようになっていない理不尽さによるものなので、それに綺麗事を重ねても無駄であることは自明の理ですよね。


でも、それでも、大人は綺麗事を大切にすべきだと私は思います。


なぜかというと、そういう子たちがなんとか生きて、いろんな経験をした上で、自分なりの幸せをつかんだとき、一周回ってたどりつく答えは「綺麗事そのもの」だからです。


「小さなことが幸せって思えることが大切なんだなぁ」


「生きていればいいことあるんだなぁ」


「私でも、私にしかない価値があるんだなぁ」


と、彼ら彼女らは自分の経験からそう語ります。


逆に、綺麗事ではすまない世界から抜け出せなかった元子ども達は、なかなか困難な道を歩み続けることがとても多いように思います。


一周回って綺麗事を実感した子の言う綺麗事と、大人がイキッて説教した時の綺麗事は、まさに「次元が違う」ので、今まさに苦しんでいる子に事情もよく知らない大人がドヤ顔で語って聞かせるのは無駄ではあるのですが、


「そういう世界がちゃんとあって、あなたにそれを実感してほしいんだよ、たとえ時間がかかっても」


という気持ちを持って子どもに接することは、決して無駄じゃないと私は思います。

大人は綺麗事を大切にしてほしい。綺麗な世界を子どもに見せてあげてほしい。語るんじゃなくて。


そう思っています。


*********************

夫婦関係でも、親子関係でも、将来への不安やあらゆるつまづきに対しても、

私は同じことが言えるんじゃないかなって思います。


悩んでいるときは、綺麗ごとなんて何の救いにもならないけれど、

自分でその問題を乗り越えた時、つかむ答えは言葉にするととてもキレイなもの。


なんか恥ずかしいけど、そうなんだよなぁ。(笑)




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