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信頼障害としての依存症


前回の、「ショックだったこと」つながりで。

みなさんは、ショックを受けた時に、その傷つきをどうやって回復させているでしょうか。


人に話して一緒に涙したり、

はげましてもらったり、

時に笑い飛ばしてもらったり、

そんな時間をもつかもしれません。


でも、人に話すということは、

時としてもっと大きな傷をつけられたり、

理解してもらえなかったり、

期待した答えが返ってこなかったりして、

それが人によってつけられた傷であればあるほど

信頼できない、という気持ちを大きくしてしまうこともあります。


そんな経験が重なると、

人は孤独なストレス解消法を好んでするようになります。


お酒を飲んだり、パチンコをしたり、

買い物をしたり、甘いものをたくさん食べたり。

そうした解消法は一時的には気分がまぎれたりスッとしたりしますが、

共通点は「一人でできること」であることです。


もちろん、一人でできる解消法が悪いわけではありません。

そうした時間も、とても大切なものです。

でも、一人でできる解消法「だけ」だと、それはいつしか依存症として

さらに自分を傷つけてしまう結果につながることがあります。


偉そうに解説していますが、

私も孤独なストレス解消法が好きな人でもあります。(幸い、依存症にはなっていませんが…否認かも…?笑)


私の場合は、ピアノと運動です。

一見、健康的でとても良い解消法でもありますし、事実そうなのですが、


一番都合の良いことは、ピアノと筋肉は文句をいわなことなんだと思います。


私がいくら怒りをぶつけても、悲しみをぶつけても、

「それなりの音」「それなりの疲れ」が返ってくるだけで、

ピアノや筋肉は「そんなあなたが悪い」とは言わないんです。

だから、安心して没頭することができる。


そうした面を、孤独な解消法は少なからず持っているのだと思います。


それも悪いことではない。

でも、一人でできる孤独な解消法ばかりしていると、

人間関係によってできた傷が人間関係によって癒されず、

永遠にカサブタができないままになってしまうことも、よくあります。

そして、応急処置という名の孤独な解消法が手放せなくなる。


それを医学では、依存症と言うのだと思います。


恋愛依存や性依存も、相手がいるけれども、結局は一人で「次はうまくいかせる試み」を行うという孤独な解消法であることに変わりはありません。


私は、依存症は「一人で何とかしてきた証拠」であり、恥じることではないと考えています。


でも、願わくば、もう一度人によって癒される機会がありますように。

その新たな試みが、うまくいきますように。


過食がやめられない人、お酒がやめられない人、恋愛や関係や性、買い物がやめられない人、

そんな不器用な我々を見ていると、

そう願ってやみません。


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人が信頼できないから物質や行為に頼る⇒依存症

という概念は、この本によくまとめられています。

興味のある方はぜひ!



ご本人はすんごい早口な先生です(笑)

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