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執筆者の写真Saori Ushijima

発達障害グレーゾーン

こんにちは!

先日、ライチ狩りなるものに行ってきました。

国産ライチを食べるのは初めてで、

誘われたときは「へぇ~」くらいの感じでしたが、

食べてみてびっくり!

ぷりっぷりのぶりっぶりで、ジューシーで、

ライチ独特の香水っぽい香り(わかりますか?)でさえ

おいしい~~~~!!



また来年も絶対に行きたいです。

でもこれ3粒で650円…。

そのくらい高いということは、そのくらい手間がかかっているのでしょうね。

農家さん、ありがとうございます。



さて、Yahoo!ニュースで気になる記事を見つけました。

発達障害グレーゾーンの当事者の方が描かれた漫画だそうで、

クロミツさんという方が、自分の経験と特性を描いているようですね。


もう、「わかる!!」の連続。(笑)

そして、このクロミツさんが、いかに自分に向き合ってきたか、

真面目に自分と仕事に取り組んできたかが感じられ、

特に泣かせどころもない(というかもがいている真っ最中)なのに、

涙なくしては読めませんでした。


ここからは、クロミツさんの漫画の感想ではありませんが、

私もこういった特性や障害に理解を、と言う気持ちは常にあります。

でも、健常な人にはわからないだろうな、ということも、同時にわかります。

うつや、依存症や、ほかの病気でさえも、

当事者にしか、わからないことがたくさんある。

そして、その「わからない」ということが、大切なのだろうなと思うのです。


発達障害の人も、定型発達(健常者、普通の人)の人の抱える苦しみが、

よくわからなかったり、するのではないでしょうか。


「甘えるな」とか、「ちゃんとしろ」とか、そういう言葉は、

自分が甘えられなかったり、ちゃんとしなくてはならなかったり、

それによって失ったものや、得ることができなかったものがたくさんないと、

他人に対して言おうとは思えないものです。

自分が苦しかったから、

他人が甘えているように見えたり、ちゃんとしていなかったりすると

怒りがわくのだろうなあと、思うのです。


健常な人は、仕事や、家庭を営むことがちゃんとできるのに、

さらにそんな苦しみを抱えて生きてこなければならなかったなんて、すごい。

そして、世の中の大多数である普通の人が、その苦しみに耐えて、

「ちゃんとしてきた」おかげで、今の世の中があるのだと思います。


それを認めずして、健常な人を責めて、理解だけ求めても、

悲しい結末になるのは世界の差別問題の泥沼化が物語っています。


発達障害圏の人々も、健常な人々も、

種類は違えど、そこには生きていくうえでの「痛み」が存在する。

それは違わないのではないだろうか。



本質的な、「対等な立場」とは、そういうことじゃないかな。

感謝しあう、ということなのではないかな。

だから、「理解する」「されない」で分断しなくても大丈夫。


癒しとは、発達障害である、ない、グレーゾーンである、という分断から、

わからないことがあるのは一緒じゃないか、痛みがあるのは一緒じゃないか、という

「通底」へと視点を変えることで起こりやすくなるかもしれません。


健常な人も、甘えていいし、ちゃんとしなくても大丈夫。

発達障害の人も、自分を卑下したり、頑張りすぎなくても、

不安定な時代にこそ、必要な才能がそなわっているから、大丈夫。

(私は発達障害は、本質的には「社会の危機に備えて生まれた一定数の特性」だと思っています。だから既存のルールや対人関係になじみづらいのです)


あいまいなグラデーションの中で、あいまいに生きていきましょう。


この世界に、はっきりした答えがあるものなんて、とても少ないのだから。

それは残酷な特徴でもありますが、同時に世界はとても優しいということかもしれません。

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